FREAKYWORKS エピソード1|結婚式の映像制作と出会うまで

FREAKYWORKSのEditor大谷です。
突然ですが、皆さんが幼い頃に将来なりたかった職業はなんでしょうか?
どのような仕事に就きたいと思っていましたか?
FREAKYWORKSを立ち上げ、さまざまなカメラマンや編集者と出会う中でいつも感じるのが、もともと映像や映画・写真が好きだという人がとても多く、学生の頃から映像の仕事をしたいと思っていた方の割合が多いように感じています。

実は私はもともと映像の仕事にはまったくと言っていいほど興味がありませんでした。
私自身、今現在映像の仕事をしていることが不思議でならないのです。
今回はごくごく普通の人間だった私が結婚式の映像制作と出会うまでの経緯をお話しさせていただきます。

 


 

目次

01.自分をうまくだすことができなかった幼少期
02.チームワークとものづくりの楽しさを知った大学祭実行委員会での活動
03.難航した就職活動
04.社会の厳しさを知った社会人1年目
05.お世話になった人々の存在
06.さまざまな経験を経て転職を決断した社会人5年目
07.結婚式の映像への思い入れが強くなった制作会社での経験

 


 

 

  01.自分をうまくだすことができなかった幼少期

 

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(1)人前で話すことができなかった幼稚園時代

今でこそ人前でも普通に話すことができている私ですが、幼稚園に入ったばかりの頃は人前で話すことがまったくできない子でした。この話をしてもあまり信じてもらえないのですが、事実なんです。毎日幼稚園の先生の服の裾をつかんで、先生の影に隠れていました。
実はその当時の記憶があまり残っておらず、少しだけ覚えているのはとにかく内気で引っ込み思案だったこと。同じ社宅に住んでいた同い年の友達に「ゆきちゃんはなんでお家ではしゃべってくれるのに幼稚園ではしゃべってくれないの?」と言われたことを覚えています。
両親はその頃の私の話をあまりすることはありませんが、きっと並々ならぬ心配をしていたことでしょう。

(2)家を建てて引っ越したことでの環境の変化

ちょうど年中さんくらいの頃に、家を建てて引っ越しをするという環境の変化がありました。
以前住んでいたところよりも少し田舎。家の近所の保育園に入りました。
『転校生』ということで保育園の仲間入りをしてからはなぜか私が人気者になりお昼寝のときに私の隣に誰が寝るかどうかで争いになっていました。なぜ自分が人気者になっていたかのかは未だによくわかりませんが、入園初日にみんながたくさん話しかけてきてくれてすごく嬉しかったことを覚えています。
この引っ越しと保育園入園をきっかけに私は人前で話すことができるようになりました。なかなか自分から心を開けない私をまわりが受け入れてくれたからなのかなと思います。なんでもウェルカムなその空気感と、自然豊かなその土地が私の内気で人見知りなところをすべて包み込んでくれました。今でも私の原点であり大好きな場所です。

 

(3)どちらかというと大人しく目立ちたくなかった小・中・高校時代

人前では話せるようになったものの、もともとの内気な性格は治らず、小・中・高校時代は苦労をしました。
もともと同年代に比べたら少し大人びたタイプで冷静だったせいか、いろいろなことが煩わしく面倒くさく感じていました。どちらかというと可愛くない子供だったんだろうなと思います。
特に嫌だったのが中学校時代。母の希望で3歳の頃からピアノを習っていたため、合唱祭ではピアノの伴奏を担当していました。普通なら喜ぶところですが、私は目立ちたくないのとあがり症だったこともあり、それが嫌で嫌でたまらなかったのをすごく覚えています。特に嫌だったのが音楽の時間。男子パートの練習の伴奏をするためひとりだけ男子の輪の中に入るのですが、それが嫌で嫌で仕方ありませんでした(ほとんど真面目に歌ってくれなかったような気がします・・)。家庭訪問の際に先生に「私ほんとうにピアノの伴奏者をやりたくないんです」と直談判したこともありました。願いは叶わず・・結局3年間、伴奏を担当しました。
もうひとつ自分でも驚いたのが生徒会の放送専門委員長に推薦されたこと。人前で話すのが苦手なのになぜ推薦されたのかはほんとうに謎ですが、全校集会の際に壇上で話したりするのも苦手で前日の夜からナーバスになっていました。
今思えば本来の自分とまわりから見た自分はかけ離れていたんだと思います。授業中も手を挙げて発表するなんてもってのほか無理で、提出物をきちんとだすことで地道になんとか内申点を稼いでいました。
とにかく自分に自信はまったく持てていなかったと思います。人の目もかなり気にする子でした。
高校生になっても根本はなかなか変わらず。社交的で明るいタイプの同世代の女の子に対する憧れが強かった記憶があります。

 

 

  02.チームワークとものづくりの楽しさを知った大学祭実行委員会での活動

 

大学に入った当時、まわりの学生たちがすごくキラキラして見えました。とにかく可愛い子が多かったんです。大学ともなると雰囲気がすごく自由で、今までに感じていたなんとなくの息苦しさは感じなくなっていました。
オリエンテーションで学籍番号が隣で意気投合した友人と、大学祭の企画・運営をする剣祭実行委員会に所属しました。もともと何人かでひとつのことをするのが好きだったのと、とりあえずなんとなく楽しそうだなというシンプルな理由でした。
実行委員会の中には企画部(イベントの企画・進行)、AVL部(音響・照明)、製作部(ステージやブースの装飾・小道具)、渉内部(イベントに使用する教室や学内の備品申請・管理)、渉外部(広告による収入確保など)、宣伝部(イベントの宣伝・ビラ配り)、編集部(パンフレット製作)、コンサート部(最大学祭のコンサート企画運営)、スポフェス部(スポーツフェスティバルの企画運営)と9つの部署がありました。
私は迷わず製作部を選択。幼い頃から絵を描いたり物をつくったりすることが大好きだったので、装飾物をつくるのがとても楽しく感じました。企画者が企画を草案して、その企画に基づいてセットや装飾を考えるのが主な仕事。まずは全体像の案を起こし、それをもとに「どの材料でつくるか」「どのくらいの予算がかかるか」「どのように設計するか」「製作にどのくらいの日数がかかるか」を細かく考えていました。装飾の材料のメインはダンボールで、つなぎあわせていろいろな種類のサイズのダンボールをつくってはペンキで色をつける。そんなことをずっとしていました。今思い出しても楽しかった記憶しか残っていないくらい、みんなでひとつのものをつくりあげるという作業が好きで私にはぴったりの活動でした。
この活動の中で学んだことはチームワークの大切さ自分で考えて行動するということ。常に自分にできることを探して率先して動く。内気な自分もずいぶんと成長させてもらうことができました。ものづくりを楽しむ原点になったと思います。

 

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  03.難航した就職活動

 

大学3年生の秋頃から就職活動をはじめました。大学では国際関係学部の国際言語文化学科のヨーロッパ文化コースに所属しており、ごくごく普通の文系のコースでした。大学に入る時点で自分の中には特にこれといった目標ややりたいことがなく、勉強することよりも大学祭の実行委員会の活動とアルバイトに熱中していました。
就職活動をするにあたり、どういった仕事がしたいかなと考えたときに私の頭に浮かんだものが「営業」「クリエイティブな仕事」でした。もともとものづくりが好きという点から一番に考えたのが広告代理店への就職。あとはなんとなく男社会で働きたいと思っていたので、職種は営業を選択。本来の自分から考えてみても営業職が似合うような性格ではなく、向いていないだろうなということもわかっていましたが、引っ込み思案な自分が嫌いだったのとなりたい自分になるんだ、挑戦したい、頑張ってみたいという気持ちからひたすら広告代理店に応募していました。

その結果、就職活動は難航しました。それもそのはず、広告代理店の営業を志望する人は活発な人ばかりで人前で話すのも自己アピールをするのも得意な人ばかりでした。とにかく私は人前で話すのと自分をアピールするのが苦手でした。
今でも覚えている面接で言われたひと言があります。

「あなた何しに来たの?自分をアピールする場ですよ、あなたのセールスポイントを話せなければここに来る意味がない、期待しただけにがっかりしました」

とあるベンチャー系の広告代理店の採用担当者に言われた言葉です。それはそれはショックでしたが、そのくらい自分の言葉で自分をアピールすることができていませんでした。案の定、地元の広告代理店はすべて落ちました。

このままではダメだ・・・と思い、髪をバッサリ切り(今となってはまったく解決策になってはいませんが・・)最後に残った地元の広告代理店業務も行う印刷会社の面接に行きました。この頃の就職活動は迷走に迷走を重ねていました。
ちょっと上品そうなおじさんに(この時は社長だとは知らなかった)、「大谷さんは勤務は浜松でも大丈夫ですか?」と聞かれた時にとにかくあわせることが合格への道だと勘違いしていた私は「浜松でも大丈夫です!」と答えました。
するとそのおじさんは「でも静岡のほうが大谷さんの土地勘や活かせることがあるよね」と言いました。その時に私はあの怒られた事件から、自分をアピールするということの意味が少しだけ理解できました。なのでこの時の出来事は就職活動の中でも特に印象に残っています。
そして縁があり、この会社に内定をいただくことができました。
不思議な縁です。

就職活動をしていた時に常に自分の中で思い描いていたことが主にふたつありました。
ひとつめは「自分にしかできないことをしたい」ということ。
ふたつめは「5年後に自分がしてきたことをきちんと話すことができるような働き方をしたい」というものでした。
地元の印刷会社から内定をいただいたことを父に報告したときに「もっと女の子がするような仕事はないの」と言われました。当時はどうしても営業をやりたい!という気持ちが強かったのと広告関係の仕事に就きたいと思っていたので特に疑問も持たずに就職を決めてしまいました。後々、父の言葉の意味と重みを実感することとなります。

 

 

  04.社会の厳しさを知った社会人1年目

 

就職して1年目は毎日が新しいことだらけで覚えることがたくさんあり、激動の日々を送りました。
はじめの3ヶ月は上司と先輩に同行してお客様への接し方や仕事の流れを学びました。その後の3ヶ月間はひたすら新規飛び込みでカレンダーを販売していました。自分でその日に行く場所を決めて、ひたすら歩いて新規営業。なんで来たんだ、なにしに来たんだ、必要ない、など。話を聞いてくれる会社さんもあれば、まったく聞いてくれない会社さんもあり、「断られる前提の新規営業」の壁にぶち当たりました。(このあたりでだんだん父の言っていた言葉の意味がわかりはじめました・・・)

先輩からの顧客引継ぎをしてからはまた新たな問題が浮上しました。若い女性が担当になるということで信用してもらえなかったり不安に思われたり、時には担当を変えてほしいと言われてしまったこともありました。どうして若い女性だからといって信用してもらえないんだと日々悔しい思いをしていました。
社外ではなく社内でも不可抗力だと思うこともありました。印刷会社ですから工場の生産ラインにスムーズにのせることが第一優先。ぎりぎりの納期で設定している案件もあり、印刷データの入稿管理が非常にシビアで、少しでも遅れると工場の担当者から連絡がありことごとく注意を受けていました。ただし上司や先輩が自分と同じことをしてもなにも言われないこともあり、理不尽だ!と思っていました。新入社員が受ける洗礼なのかもしれませんが、とにかく自分は頑張っているのに!と日々たまっていく不満を自分の中で消化していくことに苦労していました。

とにかく1年目は会社に行くのが憂鬱で、辞めることばかり考えていました。就職して1年半ほどが経過した頃に、もうやめる!と本気で退職を考えたことがありました。その時になぜ辞めなかったのかは両親の存在があったからだと思います。自分が仕事を投げ出しそうになった時にはいつも両親の顔が頭をよぎりました。私に投資してくれた分、立派な大人にならなければという責任をいつもどこかで感じていました。社会人になる前に自分の名義でローンを組み、車を購入したのに加え、教育ローンの返済もしていました。
きっと両親が支払ってくれることもできたでしょう。しかしそうはせずに私に社会的責任を負わせてくれたおかげで仕事を辞めずに済んだのかもしれません。強がりで負けず嫌いな自分の性格と親には感謝しています。

 

 

 05.お世話になった人々の存在

 

入社3年目になったときに、新しい顧客を担当することになりました。
その顧客が会社にとっては重要な顧客で、当時はその流れに身をまかせるしかなかったのですが、今思えば入社3年目の若い女性によく任せたな・・と思います。
担当するにあたっては、新たなスキルを身につけることが必要とされました。これまでやったことのない仕事の連続。帰宅はさらに遅くなり、日々奮闘していたことを日々覚えています。
この経験がなかったら今の私はなかったのではないかと思うくらい、自分が格段に成長した1年でした。成長したというよりも、成長することを求められ、ただただ必死に日々を突き進んだ結果だと思います。

入社4年目の年度末月にはこれまでの最高の売上を達成していました。
土曜日もほぼ休日出勤をしてなんとか業務に追いつこうと悪戦苦闘。そのせいか、その頃の記憶があまり残っていません。
それでも仕事は楽しく好きだったので、『辞めたい』という気持ちはありませんでした。

普通の20代半ばの女性がするには少々ハードな仕事でしたが、なぜ続けられたのかということを考えた時にやはりそこにいた『人』だったのかなと思います。
社内の同期・同僚、外注の方々など、お世話になった人はたくさんいますが、ここでは私が特にお世話になった2人の方について自分の思いを綴っていこうと思います。

①とにかく私の面倒をみてくれた先輩

入社当初からとにかく私の面倒をよく見ていてくれた先輩がいました。
役職的には先輩というよりも上司の位置づけかもしれませんが、表現としては『先輩』という言葉がぴったりあうんですよね。
偶然にも住んでいる場所が同じ地区内。そのせいか親近感も沸いたのかもしれません。

その先輩はよく飲み会も開催してくれたムードメーカー的な存在。
私もなんでも話せることができて、時に毒をはきだしていました・・。
そのささいな積み重ねがきっとストレス発散につながっていたのでしょう。

忘れもしない入社4年目の1月末。朝礼でその先輩が3月末で退職する旨の発表がありました。
本当に驚き、困惑しました。同時にこの会社はどうなってしまうんだろう・・という不安に襲われました。
(それくらいその先輩が辞めるということに影響力があったので)

どうしようどうしようと思いながらも、3月末を迎える前に恩返しをせねばと思い、
静岡支社のメンバーから寄せ書きを集めて1冊のアルバムをつくりました。
死ぬほど忙しかった4年目の年度末。でも今これをやらなければ後悔するという思いで怒涛の日々を送っていました。
いつからか自分が送別のお花を用意する担当になっていたので、退職の日にお花とそのアルバムを渡したらとても喜んでくれました。

そして言われたことが
「大谷さん、本当に忙しかったでしょ。忙しかったのに作ってくれてありがとね。」
というひと言。

その時に、あぁこの人は本当にいろんなものが見えている人なんだなぁとあらためて思ったことを覚えています。
数少ない、私の地味な努力を評価してくれていた方でした。

まさかのお世話になった先輩の退職ショックを引きずりつつも、入社5年目を迎えます。

②仕事の基本、やり続けることの大切さを教えてくれた上司

もうひとり、自分の親と同じくらいの年齢の上司がいました。
その上司とのエピソードは本当にたくさんあるのですが、中でも印象に残っていることが2つの仕事があります。

1つ目は美術館の展覧会の印刷物の入札の仕事。まだ仕事にならない、入札の段階ですので仕事と呼べるのかと思う方もいらっしゃると思いますが、行政関連の仕事においてはまずは提示された仕様書に従って見積書を作成し、公開入札し、最安値で落札するというステップを踏む必要があります。
新人研修を経て、とある先輩から美術館の仕事を引き継ぎました。
私が引き継いだ頃は入札の声すらかかっていない状況でしたが、引継ぎの挨拶をしに訪れたことでタイミングの良かったのか入札に呼ばれることとなりました。
先輩からは
「安いから絶対に落札できない」
「見積もるだけでも手間」
「入札に参加しても時間の無駄」
などなど、マイナスなことをたっぷりと仕込まれていました。

なにせ経験していないことですから、とりあえず目の前のことには全力で取り組もうとした私。
工場にかけあって特別な金額をだしてもらい、いざ入札へ。
落札はできなかったものの、一番手とは僅差だったのです。
「本当に落札できないのかな?」という疑問を私は持つようになりました。

その頃社内では人事の異動があり、上司が変わりました。
引き続き、美術館からは落札できないまま入札には定期的に呼ばれ続けていました。
3、4回落札できないことが続いたときに、引き継いだ際の先輩の言葉を思い出しました。
「この仕事、やるだけ無駄・・?」
そう思いはじめた頃にその上司は、私にこう言ったのです。
「とにかく呼ばれた入札には必ず参加して、できる限りで安い見積もりをだそう」と。
美術館の入札見積もりはとにかく時間がかかる。何種類もある印刷物に加え、学芸員が特殊な紙を選ぶので聞いたこともないような紙ばかり。おまけに金刷り銀刷りなども多く、ややこしいものが多かったのです。
日々の業務の中でその見積もりをうまくこなすことができずにたびたび休日出勤をしていました。
上司も休日出勤常連者でしたので、必ずその見積もりをチェックしてくれていました。
それでも、落札できずにいました。

「やっぱり無駄かも・・」と思っていた6回目の入札で、ついに落札することができました。
その時は驚きすぎて言葉もでず。嬉しいというよりも現実かどうかを疑っていました。
もちろん、上司に報告したら喜んでくれました。

「あなたの執念深さのおかげだね」

このことから学んだことは、粘り強く続ける覚悟と自社の強みを理解するということ。
おいしいところだけをかじろうと思うことを考えるのではなく、コツコツと積み重ねて機会を伺う。
そうすることでいずれ自分たちの得意な仕事が舞い込んでくる。
結局のところ仕事とは根性論なんだな、非効率的なものもいずれ効率につながっていくんだということをしかと学びました。

 

2つ目は突然任されはじめた県庁の仕事。
毎週決まった曜日に印刷物の仕様書が一度に提示され、紙を持ち帰れないので内容をノートにメモをする。
すぐに帰って見積もり、相談し次の日の正午までに入札をするという仕事内容でした。
美術館の入札で自社の強みを把握し、落札できそうかできなさそうかの判断がつきはじめた私はうまく仕様書を選別できるようになっていました。

そのお陰もあってか、ひとつ大きな仕事を落札します。
記憶が定かではありませんが、A4の40ページをパンフレットを40,000部・・・といった内容だったと思います。
その頃県庁では、作成した納品物をすべて一度県庁に納品し、担当者に納品のチェックをいただかなければいけない仕組みになっていました。

営業ですから立ち会う必要があり、納品日に運送会社の方と待ち合わせていると大きな大きな10tトラックが。
「え、そんなに大量?」

そう、私は納品物のボリュームを把握できていませんでした。
トラックの荷台が空いてびっくり。嘘みたいな納品物の山。
実は紙はとても重いのです。

トラックの若いお兄さんと非力な私で炎天下の中、県庁の十何階まで運びはじめる。
気が遠くなりかけたその時・・
「この荷物、全部運ぶの?」と言いながら上司が現れました(その上司も県庁を担当していました)。

上司も手伝ってくれて、3人で一生懸命荷物を運び続けること2~3時間。
みんなへとへとになってやっと運び終えました。

最後に上司が言ったことが今でも印象に残っています。

「働くって、やっぱりこうして体を動かすことなんだね。本来そうして人間は働いてきたんだから。いい汗かいたね~」

正直、なんで私がこんなことしなきゃいけないの・・とすら感じていた自分がとても幼稚に思えてきました。
発想の転換の大切さ、つらいこともポジティブに考えればそこから得るものもあるんだ、ということを学びました。

 

 

  06.さまざまな経験を経て転職を決断した社会人5年目

 

こうして社会人になり5年目を迎えた頃、ふとあることを思いはじめます。

『私、ウェディングプランナーになりたい』

正直、きっかけはあってないようなものだと思うのですが、昔からウェディング業界への憧れはとても強かったのです。

それともうひとつ、仕事をしていてずっと思っていたことが『もっと人の内面に触れる仕事がしたい』ということでした。
営業職を通して人と接することの大変さを学びつつも、やっぱり人と関わる仕事をしたいとより強く思うようになったのです。

実際にウェディングプランナーをしていた友人の影響もありました。
仕事はとても大変そうに見えましたが、なにより彼女がその仕事が好きでいつも一生懸命なのが伝わってきて、私もそんな風にもっと打ち込めるものが欲しいなぁと思っていました。それと同時に、ウェディングプランナーという仕事への興味も強くなりました。

入社して5年目の8月に印刷会社を辞めることを決意。
特に次のことを決めてはいなかったものの、環境を変えるということは大きな決断でもありました。
ただ、辞めると決めてからの動きについては一切悩むことはありませんでした。
11月末で退職をすることが決まり、いくつかの顧客にもその件を伝えたところ残念に思ってくれる方もいたのがありがたかったです。地道にですが、少しずつでもお客様との信頼関係が築けていたことはとても嬉しかったです。
ある顧客からは送別会を開いていただき、送別品もいただいてしまいました。もらったものは万年筆。

「大谷さん、文字を書くのが好きでしょ?いつも丁寧に文字を書いているから」

実は『丁寧に文字を書く』というのは私の中で大切にしていることで、しかしそれをその顧客に話した覚えもなく驚きました。
やはり、見ている人は見ているんだなぁとあらためて実感しました。

ウェディングプランナーになりたいという思いを持ちつつも、ご縁があり、結婚式場と提携している写真・映像の制作会社に転職をすることになりました。もともとクリエイティブなものが好きでしたので、好きな結婚式に加えて写真・映像の仕事という内容にとても魅力を感じたのです。

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 07.結婚式の映像への思い入れが強くなった制作会社での経験

 

転職してからすぐに感じたことは、結婚式にたずさわる仕事の楽しさ。
その人にとっての一生に一度の場面を記録するという仕事は責任重大であることも理解していましたが、経験したことのないことばかりで当時の私にとってはひとつひとつが新鮮でした。
実はこの仕事に就いた当初、映像にはさほど興味がなかったのです。

私が結婚式の映像への思い入れが強くなったのはあるひとりの編集者との出会いがきっかけとなります。
現在ともにFREAKYWORKSとして活動している後藤との出会いです。
後藤が編集したエンドロールを見て驚いたのは映像のバリエーション。曲によって違う編集、構成(どの部分にどのシーンをもってくるか)。
結婚式はひとつとして同じものはありませんが、大まかな流れは一緒になります。しかし後藤が編集した映像を見るとどの結婚式にも個性があり、オリジナリティーがあり、新郎新婦様それぞれのストーリーがあるように見えたのです。
感動と衝撃を受けたことは今でも忘れません。

それと同時に、このような思いも抱くようになります。

「結婚式の映像制作は、大量生産でルーティーンの作業だったんだ」

しっかりとひとつひとつの映像をくまなく確認していたわけではありません。
大量生産でもまったく同じというわけではないこともわかっています。
式場提携の制作会社に求められるのは『安定供給と一定のクオリティーの維持』。
私はそのこともよく理解できていませんでした。

「なんか、違う・・なんか・・・」

この違和感をどうしても拭い去ることができませんでした。
結婚式の映像への思い入れは日々強くなり、最終的に私の中にこの気持ちが芽生えました。

「もっと現場主義で動きたい」
「よりその場の空気を感じながら仕事をした」
「私も自分で映像をつくりたい」

こうして、私の今日につながっていくのです。

 

 

 まとめ

 

いかがでしたでしょうか。
私が結婚式の映像制作に出会うまでのエピソードをご紹介させていただきました。
この「なんか違う・・」という違和感が今の私の原動力になっています。
次回はFREAKYWORKSを立ち上げるきっかけについてご紹介させていただきます。

 

 

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